ジャッキー・ロビンソン

今回は、「私がバブソン大学ビジネススクールに通っている1997年に印象に残っていること」、を書いていきます。その印象に残っていることは何かといえば「ジャッキー・ロビンソン」という黒人で初めてメジャーリーグで活躍した選手のことでした。 私がバブソンにいた1997年はジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグにデビューしてちょうど50周年の年でした。

アメリカのいろいろな番組で彼の特集が組まれておりました。モハメッド・アリ、マイケル・ジョーダン、タイガー・ウッズなど誰もが認めるスーパースター達がインタビューを受けておりました。彼らが揃って口にするのは
「ジャッキーには感謝している。彼はまさしくパイオニアだった。彼が我々の道を切り開いてくれたんだ。」

黒人初のプレーヤーを選んだのは、あの野茂も在籍していたドジャーズでした。ドジャーズが本拠地をロサンゼルスでなく、ニューヨーク・ブルックリンに置いているときのことでした。なぜ、ジャッキー・ロビンソンが選ばれたのでしょうか。当時黒人リーグが存在し、才能のあるプレーヤーがごろごろしていました。体力・技術的にはジャッキーより優れたプレーヤーが多々いたそうです。
ドジャーズ会長ブランチ・リッチーがジャッキーに言った言葉は
「今必要なのは、人種差別を理解し、その人種差別に耐える勇気の持ち主だ。」
そう、差別、いかなる野次、中傷にも耐えるには彼しかいないと思われたのでしょう。

口で言えないほどの屈辱をジャッキーは受けました。観客からの野次はもちろんのこと強迫状などが届くのも日常茶飯事。遠征で同僚の白人プレーヤーから同じ部屋に泊まるのを拒否されたこともありました。ホテルにも入れず、夜寝る場所を探しに町のはずれのモーテルに行かざるを得ない、ということも経験しました。敵のピッチャーがビンボールまがいのボールを投げてもひるむことなく彼はプレーを続けました。

1947年には新人王を獲得しました。打率2割9分7厘、12本塁打、48打点の成績です。 1949年には打率3割4分2厘で首位打者となります。ナリーグの最優秀選手(MVP)にも輝きました。 彼がプレーした10年の間、ドジャーズを6回のナショナルリーグ・チャンピオンシップへ、そして、1955年にはワールドシリーズ優勝へと導きました。1962年には、野球殿堂入りを果たします。

ホームラン王のハンク・アーロンが言っています。
「ジャッキーがいなかったなら、我々がメジャーリーグで活躍できるのはあと10年は遅れた事でしょう。彼がいなければ私は755本のホームランを打つ事は出来ませんでした。」 そんなことをテレビで聞いているうちに、あの4月13日がやってきます。この日はあのタイガー・ウッズが黒人プレーヤーとしてマスターズ・トーナメントで初めて優勝した日でした。21歳の史上最年少優勝に加え、ニクラウス、フロイドの17アンダーを破る18アンダーの新記録も樹立。2位トム・カイトとの12打差というのもニクラウスの記録を破る新記録でした。ウッズは言っていました、
「オーガスタを歩いているとき、ジャッキーのことをずーと思っていました。」

異常にマイノリティの世界が盛り上がっているうちに、4月15日となりました。50年前のこの日にロビンソンがニューヨーク・ブルックリンのエベッツフィールド球場に登場したのでした。この日はドジャーズとメッツの間で記念試合が行われました。5回が終了した時点で、記念式典が行われました。クリントン大統領がジャッキーの奥様レイチェルを隣にしながら演説をしました。
「ロビンソンは50年前野球とアメリカが直面している問題を変えました。いろいろな人が共に働き、すべての人にチャンスが与えられたとき、アメリカはより強く、豊かな国になれたのです。ロビンソンはまさしくパイオニアとして、その道を切り開いたのでした。」

ロビンソンはすべて順風満帆に過ごしていたのでしょうか。必ずしも、そうではない気がします。
・何度も挫折しそうになりながら
・自分の置かれている状況に苦悩しながら
・自分自身と毎日闘ってきたのではないか

結局彼がいまだに語り継がれるのは、自分自身との闘いを逃げずに、真剣にやってきたからではないのか。そんな気がしています。

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